木曜日, 9月 27, 2007

槍ヶ岳登山 その1



登頂からかれこれ一週間が経ってしまった。まだ足が痛い。
一週間前のいまごろはまだ行くかどうか迷っていた。いや、迷っていたといえば当日、諏訪ICにまで来てもまだ迷っていた。天候不順で、あるいは健康不安でというわけではない。今思えば単に「一人が寂しかった」からに他ならない。
なんとも情けないが、事実なのだから仕方ない。

この間読んでいた「槍ヶ岳開山」(新田次郎著)の中で、槍ヶ岳を開山する播隆上人は、登山は念仏修行と同じだと説いていた。いわく「一心不乱に念仏を唱えることが極楽浄土への道であり、登山も一心不乱になれるという意味ではこれに勝るものはない」。つまり山にいる間は虚心坦懐な境地でいられると言うのである。確かに歩いている間は何も考えていないと言っていい。せいぜい次の一歩か次の休憩場所、水分の補給や量などについて考えているに過ぎない。たいそうなことは考えられないのである。
問題は休んでいるときだ。特に夜。考える時間が有り余っている。一人でいる場合はなおさらだ。テン場に着いてテントを張り、食事の用意をして食べて、片付ける…と、もうすることがない。本を読むか日記を書くか、物思いにふけるかだ。で、この物思いがよくない、否、本来はとてもいいことなのかもしれないが…。
確かに一人で自分自身を見つめるのにこれほど適した環境はないだろう。

実は吉祥丸は行く前からこの時間を楽しみにしていた、今後の自分、家族について一人でじっくり考える時間としては最適ではないかと。
だが、実際はそれどころではなかった。上記のように諏訪ICに着いた時点でさえ迷っている始末である。それが携帯もつながらない大自然のど真ん中に一人ぼっちなのだ。不安と寂寥感に押しつぶされそうになったのである。

自分を見つめなおすという意味では、結果的にこの環境は良かったのだが、それは今思うこと。そのときは後悔の念で一杯だった。だから、帰宅してサプライズで垂れ幕があって「念願の槍ヶ岳登頂おめでとう! おかえりなさい」と妻や子供たちが書いてくれていたときには、めちゃくちゃ嬉しかった反面、気恥ずかしさもあったのだった。「いや、そんなにたいそうなことではないんだよ、じつはババ平で泣きそうだったんだから」…そんな思いだったのである。

それにしてもババ平での一夜ほど寂しかったときはない。本来なら一人で北アのど真ん中でキャンプ。星空。明日は槍ヶ岳…最高のシチュエーションではないか。でも吉祥丸は寂しくて気が滅入っていた。全く楽しくなかった。これはもう個人的な資質なのだから仕方ない。あるいは慣れか。

まあ、いずれにせよ少しは強くなった? いや、そうではなくて、自分がいかに情けない存在かを、そして家族の存在がいかに自分にとって重要かを再認識させられたのである。うん、やはり有意義な一夜だったわけだ。

このときの日記を記そう。

<20日の心の揺れはなんだろう。一人じゃ寂しいのだ。やっぱり一人は嫌いなんだよ、おまえは。それなのにみんなといるときは不満ばっかり。一人旅、とくにこういう孤独な旅は身にしみて自分のこれまでの独りよがりを反省するね。妻、娘、息子(原文では固有名詞。以下同)、無事に帰ったら好きなことをしてあげる。マンガでもDVDでも妻にももっとやさしくしよう。絶対に、心に誓う。
本心は早く帰りたいのだ。槍の登頂は、それはしたいけど、一人は嫌だ。この北アの真っ只中に一人きりというのは、それを楽しむ、という気持ちにはまだ(!?)なれない。家を出るときからこうなることはわかっていた。でも一度やりたかったんだ。そう、やらなければ絶対後悔する、やっておけばよかったって。でも実際にやってみて、実は精神的にも肉体的にもきついことがわかった。もうわかった。だから帰りたい…。
諏訪ICでの自分なんて笑っちゃう。自宅から190kmも来ていながら、帰ろうか、なんて思ってるんだ。というか調布ICに乗るときも、自宅を出るときも、やっぱり帰ろうか、なんて思っていた。これから始まる冒険を前にウキウキワクワクなんて心境じゃなかったんだ。妻!会いたい…。出張に行って離ればなれ、とはワケが違うね。なんだろうこの距離感は。ケータイが通じないからかもしれない。いまケータイで話ができたらどうか。う~ん、それよりやっぱり、歩いてしか来れない、という距離じゃないかな。その距離が寂しさをUPさせるんだと思う。
俺にとって一番好きな大切な瞬間がわかった。それは家族が無防備で足下に寝ていて、それを見ながら酒を飲んでいるときだ。ああ、こう書いていて涙が出てきそうになる。家族が寝ている間に飛び出して山に行くことではなく、その場で家族とともにいることが俺の幸福の頂点なのだ。帰ったら家族をもっと大切にしよう。やさしくしよう。いい夫、父でいよう>

全く情けないのである。が、これがオレなのだ。再認識できるという意味では、やはり山は素晴らしいと言わざるを得ないのである。

なにやら全然山行記ではないが、これは極私的日記だからいいのだ。