木曜日, 11月 02, 2006

涸沢の試練 その7


夜が明けた。
夜が明けるというのは精神的に実に楽になる。不安が半減する。明るくなることで周囲の状況をより的確に判断できると同時に、天候がやや回復する、ということもある。一晩中吹いた風が朝の訪れとともに穏やかになる、などという状況は多いのではないか。

で、この日の朝…。風は止まなかった(TT)。もちろん雪も(ToT)。

でも、明るくなったことと、周囲の人たちも起き出したことで、連帯感という感じが出てきて孤独感のようなものはない。

周囲には若い人のパーティが多かったようだ。いくつかのグループがそれぞれ話している。この会話が実に参考になった。この天候に困惑しているのは吉祥丸だけではないとわかっただけでも嬉しかった。

もっとも、ある若い女性はグループの人間に「これじゃあ上には行けないね、どうする?下山する?」なんて言っている。つまり下山できるか出来ないかの不安ではなくて、上(奥穂か北穂)に行けないことを悲しんでいるのだ。たぶん、アイゼンなど用意していて、より過酷な山行を選択するか、安易な(?)下山にするかで迷っているのである。吉祥丸一家は無事に下山できるかどうかで悩んでいるのに…。
しかも、この女性はどうやらテントの前で外に立って話をしているらしい。どんな防寒具を着ているのか知らないが、よくもまあこの風雪の中で話が出来るもんだと感心してしまった。吉祥丸は今のところ一歩も外には出たくなかった。

左隣のテントでは起き出したと思われる男が感嘆の声を漏らした。
「うわー、すげえ!いやあ、雪に覆われた涸沢っていうのも趣があっていいなあ」
なんか、今初めて雪が降っていることに気づいたみたいだ。この男はあの夜中の暴風雪の中、一度も目を覚まさなかったというのだろうか。にわかには信じられなかった。それとも、息子や娘のように爆睡して気がつかないなんてこともあるのだろうか…。
「うう~、寒い寒~い!」
男はそう言って再びテントの中に入ったようだ。
ただ、この男の楽観的発言にも少し救われた。「趣があっていい」なんて発言は余裕がないと出ないだろう。少なくともこの男は今の状況を悲観していないということだ。もっとも、この男も冬山装備準備してます派かもしれないが…。

時間は8時頃になっていた。山の朝は早いと言っても、さすがに5時、6時ごろはなすすべもないくらいの暴風雪だったのである。

妻が起き出す。天気が回復していないことを知っても、あまり落胆はしていないようだった。あきらめ?

ともかく、朝飯だ。といってもまだ子どもたちは起きる様子もない。強引に起こすのもかわいそうだったので、そのままにしておく。

それよりもテントの天井に引き綱を張って乾かしていた衣類が、どうやらあまり乾いてないようだ。
と、妻が「ヒュッテの中に乾燥室があった」と言う。テント泊の人が使えるかはわからないが、行ってみると言う。吉祥丸は最悪濡れていても歩いているうちに乾くだろうと思っていたが、妻はこういうところは几帳面というか堅実だ。実際、結果的には乾かした方が何倍も良かった。特に子どもたちにとっては。

濡れた衣類や手袋やタオルなどをビニール袋に入れ、妻がトイレに行きがてら1人でヒュッテに向かう。これはありがたかった。吉祥丸はまだテントから出る勇気はなかったし、雨具が内側もびしょびしょで着れなかったからだ。ついでに吉祥丸の雨具も乾燥させてもらう。

妻がいなくなるとまた話し声が聞こえた。
今度は右隣のテントの若者だ。これは大学の山岳部のような感じだった。テントの中で話をしているようだった。
「天気予報では松本は晴れだそうよ」←マジかよ~、と思った。
「明日はここも晴れるみたい」←どうするか。明日までいるか、と悩んだ。
「20分ほど下ると雪はないみたい。雨みたいよ」←嬉しくなった。少し頑張ればなんとか下山は出来そうだ。

さらに聞き耳を立てていると、リーダーらしき若者が、「よし、今9時だから、9時半までに朝食を食べて、10時までに撤収、下山しよう」とリーダーらしくきっぱりと言った。へえー、と思いました。かっこいいな、と思いました。毅然としていて迷いがなく押しつけがましくもない。こうでなくちゃいけないんだな、と思いました。ここでまた反省…。
リーダーが続ける。「ここにいても天気は回復しないだろう。下山して、今日は徳沢あたりでパーティーかな」そう言ってみんなで笑っていた。その余裕が羨ましかった。

さらに遠くのテントでは、昨日、同じく苦行となっていた中学生集団のリーダーらしきおじさんが言っている。「さあ、こんな雪景色の涸沢なんて滅多に拝めるもんじゃないぞ。しっかり目に焼き付けておけよ」
この人の余裕も羨ましかった。中学生たちを鼓舞するつもりで言っているんだろうけど、その言葉が出る背景にある余裕が羨ましいのだ。この人も冬山装備準備してます派なのだろう。

そうこうしているうちに妻が帰ってきた。乾燥室は案の定、テント泊の人は使えなかったそうだが、誰もいなかったので荷物を置いてきてしまったという。(この後に妻はヒュッテの人と交渉して1000円で使了承を得た)。

しばらくすると子どもたちが起き出した。昨日のちゃんこの残りと持ってきた冷飯で雑炊を作る。うまかった。

しばらくすると子どもたちは狭いテントで身動きが思うように取れずに不満を言い始めた。息子は雪が降っていると知ると大喜びで「雪だるまを作りたい」などと言う。娘は逆に一刻も早く家に帰りたいと半泣きで主張した。それに対し息子は「せっかく来たんだし、もう帰るのは嫌だ」と反論。そのうち足を踏んだとか髪の毛を踏んだなどと言い始めて喧嘩になる。いつもの兄弟喧嘩ながら、この状況では収拾がつかなくなった。

また、もう一つの問題が発生しつつあった。やや傾斜のある場所にテントを張ったので、昨夜からみんなが少しづつ動くことでテントが斜めにズレだしていたのだ。一方のテントの端はちぎれそうなくらいに引っ張られていて、逆にたるんだ部分に風が当たるとより一層、風の抵抗を受けるようになってしまった。

どっちにしろ、このままではテントが持たない。もう一度きちんと張り直すか、撤収するか、そろそろ決めなくてはならなかった。

明日は天気が回復するかもしれない。ここまで来たのだから晴れた涸沢をみんなに見てもらいたい。息子もいたいと言っている。しかし、風雪が止まなければ、あるいはさらに降ってしまったらいよいよ孤立してしまうかもしれない。
妻は昼頃まで待って決めればいいと言っていたが、仮に撤収するとなると昼では間に合わない。横尾にもう一泊するなら別だが、撤収するなら一気に下山して家に帰るべきではないか。温泉にも入りたいし、などと思った。
娘は「早く帰りたい」しか言わない。

さてどうする。山では決断しなければならないことが多く、しかも、その判断は難しいものばかりだ。

う~ん…。