
娘は本気で泣いていた。
涸沢カールのど真ん中、暴風雪に吹かれながらわんわん泣いていた。
いったんヒュッテで休んだあと、再びこのすさまじい風雪の中に駆り出されたのだから、ショックと寒さで辛かったのだろう。娘が登山中に本気で泣くのは当然ながら初めてのことだ。
可哀想に思いながらも吉祥丸はとにかく早くテントを設営するしかなかった。
辺りは次第に暗くなってきた。
場所を決めるとザックを降ろし、グラウンドシートを探す。が、見つからない。焦る。一瞬グラウンドシートなしで設営するかとも考えたが、浸水や寒さや岩のゴツゴツ感解消など、あとあとのことを考えるとやはり必要だろう。落ち着いて、もう一度探した。あった。すかさず広げる。続いてテントを引っ張り出して広げた。思ったより風で飛ばされなかったが、突風が一回でも吹けばどうなるかは容易に想像できた。
ポールをテントにはめ込み立ち上げる。これが出来れば設営はほぼ完了だ。妻と息子に手伝ってもらう。妻が要領がわからずにいると息子が「こうするんだよ」と教えていた。先にも書いたが、この時息子はTシャツの上にフリース一枚、その上にレインウエアという薄着だった。外気温は0度前後だろうし、この風雪では体感温度はもっと低かったろう。良く元気でいてくれた。感心し、頼もしく感じると同時に再び申し訳ない気持ちになるのだった。
テントが立ち上がると、泣いている娘を先頭に中に入らせた。強風に対する重しにするためであり、彼らをその強風から避けさせるためである。思いザックも中に放り込んだ。これで少しテントが安定した。あとはフライをかけて、引き綱で固定すればOKだ。
不思議と吉祥丸は寒くなかった。手はかじかんでいたけど。
でも、テントの中では相変わらず泣いている娘の声と、寒さ寒いと言っている妻の声が聞こえた。この時妻は歯が鳴って仕方がなかったらしい。確かにマットもシュラフもないテントの中では風はないものの地面の冷たさが直に伝わってくるのでかえって寒かったのかもしれない。
そのうちマットを引き、シュラフを出し、着替えが終わったのか、テントの中も落ち着いてきたようだ。
吉祥丸もなんとか引き綱を張り終え、テントの中に潜り込んだ。「お疲れ様」と妻。妻はまだ着替えていなかった。子どもたちは一番暖かいシュラフに2人で入ってマンガを読み始めている。娘もようやく落ち着いたようだ。妻が「寒い」という。着替えていないのだから当然だ。早く着替えるように言って自分もぬれた雨具を脱いだ。
着ているTシャツも脱ぎ、乾いたTシャツを着る。ダウンジャケットを出してその上に着た。吉祥丸はこれで何とか寒さはしのげた。このダウンは持っていこうかどうしようか迷った物だったが、持ってきて助かった。余計かなと思いながらもまさかのためにと思って持ってきて助かった衣類は他にもある。今回はそういう面ではなぜか用意周到だった。スポーツタオルや息子のスパッツなど、また、面倒くさい思いをしながらもシュラフや着替えを全てビニール袋に入れておいたので、濡れずに済んでよかった。これらが濡れていたら本当に死活問題だった。
妻も着替えを済ませると、何とか人心地つき、吉祥丸も夕飯の支度とビールを飲みたいという余裕が出てきた。
テントの中は外と別世界で、風雪は静かで(この時の風雪は単なる序章に過ぎなかったのだ)、乾いた衣類が気持ちよく、次第にぬくぬくしてくると、活力が湧いてくるようだった。

さらにあたりはすっかり暗くなっていて、テント内もヘッドランプだけの明かりだったのでランタンに火を灯して前室に置いた。テント内が一気に明るくなる。暖かい、サラサラと乾いている、明るい…これらがいかに重要かを身にしみて感じた。逆にこれらが失われると、人間というのはあっという間に活力を失うんだなあ、と思った。
そうなると現金なもので腹が減ってきた。
さっそく夕飯の用意をする。キャンプ一日目の夕飯は豪華にちゃんこ鍋。そのために重い材料を運んできたのだ。でも、この状況ではキャンプ初日に乾杯!とはいかないけど。
食事が出来るとみんなで食べた。子どもたちも意外に食欲があった(これだけの行程をこなしたのだから当然か)。
吉祥丸はビールから焼酎へ。うまいねえ。これで明日は晴れれば言うことないな、なんて思っていた。まったく考えが甘いのだ。
温かい食事をとると体もさらに暖まり、ようやくほっとできた。涸沢までの道のりではテント設営→夕飯の用意と、憂鬱になっていたが、それらが全て終わってあとは酒を飲んで寝るだけである。リラックスできない方がおかしい。今日の反省などして…、あ、そういえば今思いだした。テントで人心地ついたとき、吉祥丸はみんなに謝ったのだった。「今日はこんな登山になってしまってごめん。パパの計画が余った。これからはもうこういう計画は立てないよ」。今はのど元過ぎて忘れてしまったが、この時は本気でもう低山だけにしよう、なんて思っていたのだ。そういえば、登りの途中で娘がヒンヒン言っていたときにも「ごめんな。これで最後だから。もう無理矢理山には連れて行かないよ」と言っていた。心底そう思ったのだ。吉祥丸の勝手な思いでこんな苦行に付き合わされる子供や妻の気持ちを思うといたたまれなかった。最初から乗り気ではなかった娘にとってはなおさらだろう。そんなわけでこれで最後、宣言をしてしまったのだ。娘はその言葉に驚いていたようだが、それで元気を出して歩きだしたの事実だ。もっとも、あとから「あと一回くらいは登ってもいいよ」なって言ってくれたけど。吉祥丸も今では「ま、あと2~3回は行けるかな」なんて思ってるけど。

さて、しばらくするとみんな疲れたのか眠りに入った。息子は最後までヘッドランプでマンガを読んでいたが、そのうち寝てしまった。吉祥丸はなんか寝られず、ヘッドランプとバーボンを片手に娘の「デスノート」を読んだ。あたりは静かで、とりあえず今日の予定は全て終わっており、バーボンはおいしく、ほどよい酔いが全身に回っている。大変だったど、今のこの時間は何とも贅沢で充実しているなあ、楽しいなあ、などと思っていたのだった…。
山の神が怒り狂ったようなさらなる暴風雪が吹き荒れるのはその数時間後だった。